私たちの声
~ひきこもり整体師のひとりごと~
令和4年8月第10回
自己紹介:楠永洋介
小学校3~4年を不登校、次いで中学校1年2学期~2年生を不登校、義務教育期間中は正味5年程しか登校していません。定時制高校を卒業後、進学、卒業を拒否して祖父の遺したお金でネットスクールや、ワークショップ、FXなどを経験してお金を溶かしました。なんやかんやあって結婚後、2人の子供を授かる。現在、農業、整体業、塾講師等で生計を立てる。
ひきこもり整体師です。締め切り迫る20日過ぎ、やっぱり鮮度が大事という事で、今回の話に切り替える事を決心。なので、25日(深夜)の投稿をお許しくださった坂本さんにこの場を借りてお礼申し上げます。では、どうぞ。
夏祭り
お祭りの季節がやってきました。今年は約3年ぶりに地元でも神祭が行われようとしている。僕も協力させてもらっている西畑人形芝居保存会も久しぶりの公演となるので、少しワクワクしている(これを書いている今も本当に開催出来るか怪しいのだけど)。
保存会に協力し始めたのはかれこれ12年ほど前からになる。おおよそ集団行動などとは縁遠い人生を送ってきた僕にとってこれは結構な快挙で、異例の事態である。その辺りの機微なんかをたまに人に尋ねられたりするけれど、未だに僕自身まとめれず、説明のつかない所が多々ある。しかし、「公演」というと皆さん往々にして沢山の人前に立ち、磨き上げた芸を披露する。みたいなイメージがあるようで、ま、これは確かなのだけど、それはあくまで樹に於ける枝葉みたいなものである。
僕の愉しみ
実を言うとこれを書いている今その時もせかせかとお祭りの準備をしていて、かれこれ一週間近くまともに仕事をしていない。少し前までお祭りで踊る太刀踊り、そこで使う『ザイ』と呼ばれる物を倉庫の2階に籠って作っていた。ピンと来ない人の為(というかそんな人が大半だろう)、ザイについて補足すると、戦国武将が采配をする時に振るっている、幅1cm、長さ30cmの和紙が沢山ついているモノを想像してもらうといい(更に言うなら、その和紙の短冊は両側に付いている)。一本作るのに大の大人がかかって1時間強を要する。それを義父さんと手分けして工作している時、「何してるんやろうなぁ」「仕事放ってなんしゆうろうにゃぁ」と自嘲しながら笑い合う。実は僕はこんな作業をしている時が一番好きだったりする。寓話のアリとキリギリスのキリギリスのような、ともすれば馬鹿げた作業をしている時、僕の心は豊かになる。誰かに尋ねられる度、この『本番前の準備の時間』が一番好きだと答えるけど、誰しもピンと来ない顔をしている。準備の時、もっと上手に作るにはどうしたらいいだろうか?とか、何でこんなことしてるんだろう?とか、そんな事を考えながらオッサン2人が煙草を吹かす。小さな工作部屋は昭和高度経済成長期みたいに紫煙で燻る。けれど決してイヤな思いでやっているわけではない。むしろ、このような活動をないがしろにした瞬間、僕は心まで貧しくなるのではないだろうか?という強迫観念まであるのだ。
此岸からの彼岸
僕が僕自身の利益を追求するならばこんな活動をする必要はない。やればやるだけ損と言うものだ。ただ僕が自身だけの利を追求したくないのは世の中全体が利や、生産性を追求する流れを感じ、それに反発しているのもあるし、それが故の種々の生きづらさもあるのではないかな?と、どこかで思っているのもあるだろう。
メンドクサイを捨てて何を得たか
確かに一度お祭り、あるいは催し物をするというのは大変な労力だし、めんどくさい事、煩わしい事、沢山あるように思う。その際に発生する人と人との関わりは柵(しがらみ)そのものだ、だけどそれは地域活動そのものでもあるだろうから、そのしがらみとか絆とか言われるようなメンドクサイモノを切り捨てていった、というか避けていこうとしている時勢はともすると、表面上は相手に合わせつつ後ろを向いて舌を出す。というある種の『ズルさ』ともいわれる知恵を捨てたようにも思われる。
みんな仲良くするなかれ
みんなと仲良くするなんて出来っこないしする必要もない、それでも良い。みんな同じにする事はない。どこかで「仲良く、同じに」やろうという見えない強迫と、「平等」と「自由」という幻想の下、世の中色んな事を『外部委託』したのかもしれない。まあそれはあくまで僕の直感だから、あんまり大きな声で主張することはないけど、みんなと同じにしないこと、同じにやれないことの『価値』というか、もとい『あたりまえ』がともすれば生産性や意義など枠の外で行われてきた『お祭り』や『神事』の中にあると僕は密かに確信している。
意味が無いから
誰もやりたがらない、けど誰かがやらないと終わってしまう事はたくさんある。そういう『文化』は守る価値があるんじゃなかろうか?と、友達に言った時、「守らなければ無くなってしまう『文化』ならそれは廃れてもやむ無しだよ」。と言われたことがある。少しカチンときたけど、今は図星故の苛立ちだったと思う。現状、僕はそんな大義の為にお祭りの準備に参加していないなあと思っている。僕のモチベーションを言うなれば、「産めよ増やせよ」と言って憚らないこの世界の時勢に密かに反抗しているつもりなのだろう(ザイを作るのだって穿った見方をすれば、塵を作っているにすぎない)。何も産み出さない活動の深さと広大さがそこにはある。知らんけどね。やった人にしか見えない景色はあると思いますけど(楽しいゾ)。
そしてまた今日から僕は社会の一部として納税とローンの支払いの歯車にもどっていくのです。生活が始まります。意味なきモノに潤いはあると信じてます。