KHJ高知県やいろ鳥の会

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私たちの声


~ひきこもり整体師のひとりごと~

令和5年4月第19回

自己紹介:楠永洋介

小学校3~4年を不登校、次いで中学校1年2学期~2年生を不登校、義務教育期間中は正味5年程しか登校していません。定時制高校を卒業後、進学、卒業を拒否して祖父の遺したお金でネットスクールや、ワークショップ、FXなどを経験してお金を溶かしました。なんやかんやあって結婚後、2人の子供を授かる。現在、農業、整体業、塾講師等で生計を立てる。

みなさまお久しぶりです。楠永です。最近全く忙しい日々でちっとも原稿を書く気が起きませんを。脱稿しちまおうかなぁ。とも思いましたが、とりあえずワードアプリを起動して、適当に綴っていってみます。

最近新たな人間関係、というと大げさだがある人に出会った、そこからまた縁が繋がりひきこもり等の話もしたりした。僕が精神保健福祉士とか、精神科医だと生まれない縁のように思えた。

やっぱり「整体師」くらいの肩書で関わるのが僕にとっては気がラクな側面は否めない。以前、僕はいの町波川で居場所の当番を承っていたが、補助金の区切りの3年ですっかりスタッフ業務からは手を引いた。もちろん、賃金の問題等もあろうけど、何より僕は「こういう支援者は自分には向いていないなぁ」と悟ったからに他ならない。

以前も話したかも知れないけど、もっと多くの人に知ってもらいたいのは当事者と向き合い、対話したりするのはかなり大変な作業だということ。その人と向き合い座り…、座っているだけ、会話が無くてもじつは僕は消耗する。言葉の見えないその中でも色々なやり取りを感じる。話せるものなら話すけど、無理には会話しようとしない。昔、「好きな子とのメールを長続きさせるには最後に『?』を付けてメールを送る」みたいなハックがあったけど、居場所に常駐していた当時このハックとは真逆を行っていたという訳だ。想像出来ないかも知れないけど、質問に答えるのって結構なエネルギーを要する。ほうほうの体の心持ちで来た人を質問攻めするのは良くないよね。こういうのはほっとルームを運営していた、山﨑瑞子センセのまねっ子だ。センセ(当時80歳前後くらい?)は「よく来たね」と言ったあと、質問攻めにすることもなく、立て板に水、みたいに自らを語る事もしなかった。ポツリポツリと最近行ったお店の話、誰かから聞いた話、言う事を聞かなくなってきた自分の身体の様子なんかの話を聞きながら、僕は出してもらった珈琲を飲んでいた。老齢のおばあちゃんがお盆に珈琲とお茶請けを載せ、微かに震う両の手とままならない脚で慎重に運んでくれたそのひとつひとつがありがたいものだと今は。

話は逸れけど、人と交流する時、会話によるコミュニケーションよりも大事なものがあると、センセに感じさせてもらった。だから僕は居場所にいた時、何よりも自分が正直で、素直であることを重視した、言外のコミュニケーションにおいて、人に無理に干渉せずただ悠々と過ごす人から受ける影響を僕はまざまざと感じたから。

それは肚の据わりようとか、度量の大きさとか言われるモノが問われるのかも知れない。そのどちらも持ち合わせない僕にとって初めて居場所を利用するひととの対話は大変な難事であった。全員が全員そうではないが、シビアな背景を持つ人との対話は帰宅後の僕をトイレに籠らせるのには充分なやり取りだった。そんな経験を重ねるにつれ「向いていないな」という思いが強くなっていった。

だから、というわけではないけれど、現在といろやピアセンに居られるスタッフの方々には平身低頭の思いである。そして、スタッフの方たちから「しんどい事もありますよー」というような話を聞く時なんだか切ない気持ちになる。当事者に寄り添う事の素晴らしさは誰もが知るところだろうが、その大変さはあまり伝わっていないように感じる。こういった事を周知する為に何が必要か?と思ったとき、簡単に結論づければ、多くの人に実際に経験してもらえばいいのだけど、それは土台無理な話で、もう少し現実的な話するなら「ひきこもり学」という学問をしっかりと確立させればあるいは、という思いである。それには「ひきこもり」をどう定義し、どういったパラメータを扱い、どういったパラメータは扱わないかという議論が必要だろう。僕の知るところでは「そんなことは定義出来ない」という言説が多いように感じるが、学問により狭義に至るのではなく学問により深くに至るのが学問であろうとも思う。しかし、そもそも定量化出来ない事象であるのは明確なので、そこを推し測るには言語学や、民俗学などの分野の研究方針が様々なヒントをもたらしてくれるのでは無かろうかと感じている。

例えば、こんな話がある。(この先は人により少々ショッキング(遺体損壊等)な内容となります。苦手なかたはここで読むのをお止めください。)

1950年代、福島県で死亡した妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、埋葬したとしてそれを行った医師が死体損壊罪により裁判にかけられた。この行いはこの土地の習俗で、子育て幽霊等の民話に流れる思想に基づく、故人の冥福を祈る供養方法だったが、時代の流れとともにそれは良くない事ではないか?とされ係争になったようだ。裁判の結論をいうとこの行為は推奨されることでは無い。が、死化粧のような死者を弔う遺族の思いに依るものでこの医師の行為は違憲では無いと判決されたようだ。より詳しく知りたい方はYou Tubeの『ゆる民俗学ラジオ』というチャンネルで騒動のさわりを扱っているので調べてみても面白いかもしれない。

無理に同じ土俵で語るべくもないが、僕はこの習俗や、一連の騒動にひきこもりの問題との共通点を感じてしまう。そうなったり、そうせざるを得なかった人々の思いは誰が汲むのか?それは僕が深く関心を寄せる事柄だし、みんなにも共有したい話である。

今月もなんとか書き上げました。何らかの反応いただけたら嬉しいです。ではでは。

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