KHJ高知県やいろ鳥の会

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私たちの声


~ひきこもり整体師のひとりごと~

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おんちゃん

掲載月題目
2024年3月おんちゃんの香り
2024年2月おんちゃんのゲーム
2023年10月おんちゃんと猫と、あと言葉おもちゃ
2023年8月おんちゃんの筋トレ
2023年6月おんちゃんのバイク
2023年5月おんちゃんのお酒
2023年3月おんちゃんの定義とか価値観について
2022年6月おんちゃんのドロボウ万歳

澤村氏の投稿

掲載月題目
2023年7月澤村知秀氏(試験就労先のユリ農家の社長)の投稿
2022年8月澤村氏の投稿
やいろ鳥の会の試験就労先の花卉農家社長澤村友秀氏の投稿
といろからの試験就労先のマルサ花卉農園の澤村友秀氏の投稿文

不登校の講演記録

ひきこもり支援の難しさ
――当時者理解と支援のゴールとは――

2020.12 長谷川俊雄氏(白梅学園大学子ども学部教授)
NPO法人 なでしこの会会報223号から抜粋

コロナ禍とひきこもり
コロナ禍の中で、世界・社会が自粛生活の中でひきこもりと類似の共通体験をした。
その影響が家族には二通りに現れた。ひきこもりと類似した体験を通じて、ひきこもりへの共感的理解が深まる家族と、一方でそれがストレスとなり、なぜ子どもはひきこもるのかまったく理解できないと、緊張や葛藤が強くなる家族がある。この違いはどこから生まれるのだろうか。
コロナ禍には積極面もある。世界・社会がひきこもる人と類似の体験をした。そのことを活かして、ひきこもる人への理解を深めていくことが課題である。

8050問題 生きること 緩やかにつながること を大切にした支援
現状では、客観的な調査で全体がつかめてはいないが、複雑で深刻な問題である。8050問題は、ひきこもりとの関係でクローズアップされているが、ひきこもりだけの問題ではない。ひきこもりだけの問題としてとらえると本体を見誤る。本体は家族の社会的孤立である。

本人の問題
ひきこもる期間が長くなると、意欲が減退し、何かを変えることへの抵抗感が強くなる。また、社会経験が絶対的に少ないために社会参加が難しい。支援がひきこもる人の人生の希望や目標の収奪にならない配慮が大切。

親の問題
いろいろ取り組んできていて万策尽きているので、意欲がなくなるのが当然の状態。そこを精神主義的に「がんばれ」と励ます支援はより孤立を強めていくだけ。圧倒的な孤立無援感がある。だから容易には心を開いてくれない。また、変化することを諦めている。
深刻な問題だが、だからといって侵襲的な支援はしない方がよい。緩やかで柔らかい支援が必要です。

予防的支援
本人は孤立していても、家族全体が孤立しないように、50歳になる前から、地域や支援機関とつながっていくことが重要になる。そのためには20代、30代からの長期の継続支援が必要。

現状支援
地域や支援機関を拒絶していることが多い。まずは安否確認、情報と生活物資支援を通じてゆるやかな関係性を作る事。本人の同意のない乱暴なアウトリーチは止めた方がよい。積極的な支援が本人の尊厳と人格を傷つけることもある。

ひきこもりを生きることを支援する
親子は対立緊張関係にあることが多い。ひきこもりのゴールはまず①本音と本心を語れる事。そのためには、居間・リビングルームをゆったりできる場所にすること。「これからどうするの」「このままでいいの」と一方的な質問で本人を責めると、ますます部屋の中にひきこもってしまいます。本人は多くの場合、どうしてひきこもったのか自分でもわからず、漠然とした不安、不安定な状態にあります。まず、ゴールは②快適にひきこもるです。快適にひきこもらなければゆとりや余裕がありません。ゆとりや余裕なしに、ひきこもりをなんとかすることはできません。働いている、学校に行っているなどの「準ひきこもり」の人のゴールは③過剰に適応しない事です。彼らは外出できるようになるかもしれない、働けるようになるかもしれない。でも、彼らは「ひきこもりを生きている」のです。ですから、一気にひきこもりを解決するのではなく、「ひきこもりを生きる」ことを支援することが大切です。

親の良かれは子どもの迷惑
ひきこもりそれ自体よりも、そこから出られなくなることが問題。そうすると家族が心配する。しかし、親の提案が子どもにとっては迷惑になることが多い。そこから親子の緊張と対立が生まれる。そこに、更に社会的支援の不十分さが加わります。ひきこもりは全国に100万人いると言われています。統合失調症の方は全国に90万人いるが、さまざまな社会的支援がある。それに比べると、ひきこもりの社会的支援はほとんどないに等しい。そのために親の負担が肩に重くのしかかっているのが現状である。
適切な社会的支援がないままに、親が本人に不適切な関りを続けることで、ひきこもり問題が長期化していく。家族間の対立と緊張を緩めるためには、具体的には、本人の安全・安心をつくる、家族間親子間の信頼を取り戻す(新たにつくる)ことを目指すことです。

本人を変えようとしてはいけない
多くの場合、本人の変わりたい方向と親や支援者の考える方向が一致しないことが多い。本人が望まない方向に変えようとすることは暴力となり、ひきこもりを深め、他者や社会に対する恐怖感や拒否感を強めることもある。本人を変えるのではなく、本人との関係や環境を変えることが大切である。

生きることへの支援
ひきこもりの支援では、まず生きる事( being )を保障する。快適にひきこもりながら安心して生きる事を目標にする。その中で初めて何をしたいか考えられる条件が整うのではないか。本人が望んでいないにも関わらず doing  (外出・働く・他者と繋がる)を目標にすることは生きる力を弱めます。ひきこもる人の中には、生きる事そのものがつらくなり、自殺される方もあります。生きる事を保障することが彼らの命を守る事である。ひきこもる人に憲法25条の生存権を保障することです。

多様なゴール
ゴールは多様であり、それぞれの人にとっての最適なゴールがある。それぞれの人の自己決定権が徹底して尊重されることが重要である。

 

『共感(的理解)について』

2020.6.8 高垣忠一郎

 個人の内面を理解しようとする心理カウンセリングのアプローチを、社会の矛盾や構造から生じる問題を「心理内に閉じ込める」という荒っぽい批判が昔ありました。
半世紀まえの、わたしが大学院生のころのことでした。
でも、わたしには、逆にそういう批判をする人は、周囲の環境が「一方的に人間に問題を生じさせる」とする機械的な見方に陥っているように思いました。心理内のダイナミズムに問題の発生の主体的な意味を探るアプローチは、そこに「個人の主体」をみとめる積極性をもっているのです。

 心理臨床やカウンセリングのアプローチは、問題の行動や症状が、その個人にとってどういう意味を持っているのか?その個人の発達や人生にとってどういう意味をもつのかを理解しようとするのです。そのことを抜きにして「個人」の尊重はありえません。それは個人のまなざしに寄り添い、個人の立場に立って問題をみることです。外からみて「問題」の行動も、その個人の成長、発達にとっては、通過しなければならないステップであることだって少なくありません。

 個人は一人ひとり独自の内面をもちながら、生きています。二人として同じ内面をもつ人はいません。一人ひとり異なるその個人にとっての内面的な意味を尊重することなく、「個人を尊重する」ということは厳密にはあり得ません。

 外的には同じような貧困でも、個人にとって、その意味は異なるのです。それをひとくくりにしてたとえば「貧困問題」としてだけ扱うことは、個人を、貧困問題の“ワン・オブ・ゼム”として扱うことにしかなりません。子ども自身の内面、主観をくぐり抜けて子どもをとらえることをスッポカシテ、私たちおとなは、子どもを対象として、おとな自身のもつ枠組みから子どもをとらえる傾向があり、それからなかなか抜け出せないでいます。子どもの置かれている状況や子どもの行動を、外からおとなの枠組みでとらえて子どもを理解したつもりになったり子どものためを考えてやっているつもりになったりしていることがよくあります。

 私たちおとなの目には世界はこう映っているけれど、子どもの目にはまた同じように映っているのだろうか?子どもの目には世界はどう映っているのだろうか?そのことの理解なしには、おとなの子どもに対する働きかけは、おとなの側の一方的で独善的な働きかけになり、ひとり相撲に終わる危険があります。
子どもを愛するがゆえに、子どもの将来を心配し、子どもに良かれと熱心に子どもの勉強をみてやる母親の姿も、叱咤激励する父親の姿も、子どもの目には、どう映っているのでしょう?

 不登校の5年生の女の子は、「親心は下心」と喝破しました。まさに、的をついた言葉です。おとなの子どもに対する働きかけも、それが子どもの目にどう映るのかということへの反省を抜きにすれば、おとなの独善に終わり、意図した効果をもたない結果に終わるでしょう。子どもへの働きかけは、子どもの内面というレンズを通して屈折されて子どもの心に映し出されるからです。

 共感、あるいは共感的理解の意味が、いま雑に使われています。人々がよくつかう「共感」という言葉は、多くの場合、相手の人の考えや思想や思いに同感、賛成、同意するという意味で使われています。だが、わたしのような心理カウンセラーの使う共感(的理解)は、相手の立場、境遇に立てばそのように感じるのだなと、相手の立場に立ち、相手の枠組みに立って相手の気持ちを理解することです。
相手の考えや思いにこちらの立場から「いっしょや、いっしょや」と同意する、賛同するという意味ではありません。相手の立場に立って、相手の内面を尊重し相手の気持ちや考えを理解しようとするのです。そういう意味で共感(的理解)という言葉にこだわるのです。
コロナ騒ぎだって、おとなの感じ方や見方と子どもは違った風に感じ、見ているかもしれません。こういうときだからこそ、余計に子どもの立場に身をおいて、子どもの思いやや気持ちを、理解したいものだと思います。

 昔、わたしの息子がお世話になっていた保育園に3歳児なら3 歳児の部屋に入ると、三歳児の背丈に身をかがめて、保育ルームを眺めまわす保育士さんがおられました。とても心に残る方でした。

 長い文章を読んでいただきありがとうございます

 

『当事者家族の一考察---親が変われば子が変わるという事について』

オレンジ ボニート/2011年5月10日

 子どもがひきこもった頃、親の苦悩はいかばかりか、まさにパニックを起こしかけていた事を当事者家族の皆さんには容易にご理解頂けると思います。必死で情報を漁りアドバイスを求めましたが、解決に至る答えは見つかったでしょうか。将来を見通せない不安は親の更なる不安をかき立て、苛つき焦り子どもをなじり叱ったのではなかったでしょうか。子どものためと言いながら実のところは、親が不安から解き放されたかったのではなかったのか。思い返せば反省は山のようです。
子どもがひきこもった当初、コミュニケーションが取りづらかった間に答えを求めて読み漁った本を積み上げたら楽に私の身長くらいにはなるかも知れません。そしてようやく私自身の中で、この問題はハウツーでは対処出来ないのではないかという思いが生まれてきたとき友人からのアドバイスが私を捉えました。「怒るななじるな、判ってやれ。」
一番苦しんでいるのは子どもだし、決して怠惰で動かないのではなくてどうにも動けない状態にあるとは判っていたので、怒ったりなじったりはしなかったが果たしてどうすれば判ることができるのだろうか。友人は言った。「例え判らなくても、たとえ1%でもいいから判ろうと努力し続ける事」だと。
私は、これはまるで禅問答だと思った。しかし、他に道は無いようにも思えた。どうすれば子どもの心が判るのだろうか。子どもに寄り添い全神経を集中して子どもからのシグナルを捉えようとしていた時、別の友人からのアドバイスにハッとした。「そんなに至近距離でにらみつけるようにされたら子どもさんは動くに動けないよ。」
その通りだった。私は自分の勝手な思いだけで動いていた。子どもを判ってやると言う思いは子どもを早く治さねばならないという思いにいつの間にか取って代わっていたのだ。何という親の勝手さか。今にして気付いたのだが、子どもを怒りもなじりもしなかったから自分は良くできた親だと思っていたのだが、そんなことをしなくても子どもは痛いほど親の要求を判っていたのではないだろうか。ひきこもる子どもは感覚が鋭いし、ひきこもる事によって感覚が研ぎ澄まされるのかもしれない。子どもは親のエゴなど全てお見通しなのにジッと耐えていたのかもしれない。ごめんよ。
何時だったか私はひきこもりの解決は本人が「育ち返しをすることだ。」と言った事があるのだが、先ずもって育ち返さねばならぬのは私自身ではないのかという事に気付いてしまった。傲慢だった。
私の気付きと共に元気を取り戻しつつある子どもの将来はどうなるのか。以前は不安で一杯だったのに今は将来が楽しみだと感じている。育ち返しを経て自分の人生を納得し、最終的に就労しないとしてもそれは子どもの人生だ。受け入れたいと思うようになってきた。ひきこもっている期間も子どもにとっては子どもの人生だから、無駄だとは言えないのではないだろうか。そのような期間も含めて人生を肯定すればひきこもりだって肯定出来るように思う。
家庭の中で親と子がいて、子どもが動けなくなりひきこもった時、親が変わらずに子どもにだけ変われ変われと言いつのっても動けないだろう。それで動けるならひきこもりにはならなかったのではないだろうか。子どもが動けないのなら先ず親が変わってみせたらどうだろうか。勇気を振り絞って不安と恐怖に打ち克ってみてはどうだろう。それが本当の意味で子どものためなのかもしれない。

『私のこと』

T.S.さん/2011年3月

略歴からお話しましょうか。生まれは農家です。三人兄弟の長男です。不登校の経験としては、小学校5年生を丸一年不登校をやってまして6年生から保健室登校を始めて少しずつ復帰していきました。中学高校といやいやながらも登校しなんとか卒業しました。その後、デザイン系の専門学校を卒業し、家具職人の見習いを4ヶ月ほどやりましたが続かず辞めました。そこから3ヶ月から4ヶ月ほどでしょうか、部屋にこもりきりになってましたね。その後現在の家業の農家の仕事をしています。というのが大体のあらましです。

不登校の時や引きこもった時の心境については、どんな子供時代であったかを話すほうが分かりやすいと思いますので、そこからお話します。

記憶の中にある最初の自分の記憶は、忙しい専業農家の両親がいつも家におらず寂しく泣いている事です。両親が家から仕事場のハウスへ行く時に足にしがみついて泣いていました。親が目の前からいなくなるという事が不安を呼びそれがまるで永遠のように感じられたからこその行動だったと思います。どうしても仕事だから行かなくてはいかないといくら諭されてもわからなかったと思います。自分が好きな物がいなくなる、なくなるというのはとても寂しいものですから。寂しさは私の中に様々な心の弱さを作っていったと思います。私が幼稚園に入ってもその不安は消えませんでした。当時、大好きなキャラクター物のサンダルがあり、お気に入りで毎日履いていました。ある日保育園に迎えに来た母と一緒に帰ろうとした時のことです。用水路に誤ってサンダルを片方落としてしまいました。サンダルは流れに乗ってどんどん流されていきます。私は一瞬でこう思いました、大好きな物が無くなる消える失う。そこからの私の行動は簡単でした、水路に泣きながら飛び込みサンダルを追いかけ持って這い上がりました。今もその用水路はあります、川幅が2,3メートルぐらいで、時期によっては水深が90センチくらいでしょうか。私が飛び込んだ時はそこまで深くはなかったかもしれませんが保育園児が飛び込むには少々勇気がいったと思います。落ち着けばまた同じものが手に入るとも思えるかもしれません、ですが、今から思うと寂しさを感じるのがそう考えるのより強かったのでしょうね。もしかすると、自分の好意の対象が消えるということは何かを好きになるという自分が消えてしまうのを恐れていたのかもしれません。この頃から小学校ぐらいは常に不安でオネショをよくしていましたね。強い不安は寝付きの悪さを引き起こして、家族はみんな寝静まっているのに私ひとり闇の中にいるという恐怖感から怖い夢をよく見ました。当然、睡眠時間は少なくなるので朝起きるのがしんどくてたまりません、しかし学校があるので親は「おきないかん」と怒ります。親としては当然の事だったと思いますが、十分な安心感が得られない状態で更に怒られてはたまりません。子供なりにストレスがたまっていったのではなかったかなと思います。

家には仏間がありまして、そこの仏壇にもらいもののお菓子をお供えしてから手を合わせて家族がいただくというルールがありました。仏間は薄暗く真っ黒い仏壇は気味が悪くて恐ろしかったなと憶えています。私が親に言われてお供え物のお菓子を取りに行った時の事です、怖がりながら手を合わせお菓子を取って部屋を出ようとして振り返ろうとした時、仏壇から大きな真っ赤な人の手が伸びてきました、私の胴体をつかめるくらい大きなものです。あわてて走って部屋から逃げ出しました。親に言っても信じてもらえませでしたね、ただ笑われたと記憶しています。当然ですね、幻覚ですから。怖い幻覚は他にも何回か見ました。幻聴もありましたね、夜、寝付けずにいる時に延々と階段を上がってくる誰かの足音が聞こえたりしていました。子供だから想像上の物が見えたり聞こえたりするのは当然なのでしょうか?それとも不安心理から来るストレスがそうさせたのか。それはわかりません。不安をまぎらわす為によく弟をいじめてました。誰かより上になれば自分の弱さを見なくてすみますし弱い相手を見る事で優越感を得られます。自分にはそういうところがあったと思います。

そして不登校です。もしかすると何かしらのきっかけがあったのかもしれません。例えば強く先生に怒られたとか、もしくは同級生に嫌な思いをさせられたとか、でも原因は私自信の強い不安感だと思います。もし先生や同級生が原因であれば学校に復帰はできなかったでしょうし、18年後に彼らにもう一度会おうとも思わなかったでしょう。

不登校の時に最初のほうは一人で家にいる事が多かったように思います。学校にいかず何をするでもなく束縛感を感じない時間は逆に安心できる時でもあったと思います。朝起きて家族みんなが外にでた後、廊下に出て窓から少しずつ日が差し込んでくるのを肌で感じながら外を眺めていました。学校や家族といる時間と比べると時間がすごくゆっくりでしたね。もしかすると心の充電期間だったのかもしれませんね。しばらくすると一人でいるのにもいたたまれなくなってきます。不安感が少しマシになると次は寂しさが出てくるようになりました。そうすると信じたい人間と一緒にいたくなってくるのです。それは両親であり、友人でありました。当時はクラスにもう一人不登校の子がいました。彼とは一緒に散々ゲームをして遊びましたね。いつも私が電話をして遊ぼうと声をかけ家に行ったり、来てもらったりしてゲームをやってた記憶があります。とても楽しかったですねえ。遊べない時は両親を追いかけてビニールハウスに行ってました。もうしばらくすると親は私を教育委員会へ連れて行くようになりました、そこでは現在の不登校の対応をするような場所であったと思います。私はそこで卓球やオセロをして遊んだり、お話を聞かせてもらったり、後は箱庭の砂場のテストを受けたりしていました。母はその時に不登校の子の対応を教えてもらっていたと聞いています。その対応の一つに毎日私の足裏をマッサージするというのがあり、毎晩揉んでくれていましたね。私は嬉しくもありましたが、同時に寂しくもありました。それは残念ながらしかたなく揉んでいるのがわかってしまったからなんですが、暗い表情で私の足をマッサージする姿は苦しさを感じさせるものでした。何度か揉まなくてもいいと断るほどでしたので。子供にとってスキンシップは大切なコミュニケーションの一つだとは思いますが気持ちを乗せそれを伝える想いがなければそれはお互いが苦しいものなのかもしれませんね。

6年生になってすこしずつ学校へ復帰していくようになりました。周りの同級生は大分ためらったと思います。急に1年くらいこなかったのに登校し始めた、なんなんだろうかと。それについては先生方がだいぶ気を使ってくれたと思います。おかげで復帰を果たし通学していけるようになりました。この事は私の人生において強烈な意味を持ちます。

私は家庭の中に自分の居場所というものを感じる事や作る事ができませんでした。安心して家にいるということができなかったのです。それは幼い頃から寂しさに飲まれ続けたおかげで心が弱り、何かを信じる力が弱くなってしまったからです。不信感は特に人間に対して出てきます。目の前の人間は自分にとって安全なのかどうか、どうすればこの人は自分にとって安全な存在になるだろうか、しかしそもそも人を疑っている自分は信じれるのだろうか、何が自分なのだろうか。人間不信は自分を疑う所まで来ると全てに対する自信を失っていきます。誰かと話す自分、誰かと遊ぶ自分、学校へいく自分、ご飯を食べる自分、体を動かす自分、考える自分。私は当時の私が自信を失った自分を不登校という形で表現し、自分の持つ弱さをさらけ出したのだと感じています。そして復帰し同級生に受け入れてくれた事実というのは本当は弱い自分がその中に居場所を感じ始めた瞬間だったと思います。私は始めての社会、家庭で弱さを見せ続けてきましたが受け入れられたと思える時はありませんでした。しかし、小学校では居場所を感じる事ができ初めていたんだと思います。

だから小学校を卒業して中学校に入学しても必ず、小学校の同級生の何人かとは繋がりを持ち続けていました。彼らの存在は私の自信にほぼ直結するくらい大きな存在なのです。中学も高校もですが、そこに小学校ほどの居場所を感じられるものはありませんでした、今現在でもそう思っています。彼らの存在が無ければまた不登校になっていたのではないかと思っています。

専門学校時代や就職中でも自信ない自己評価の低い自分は常におりました。自分は低レベルであるという自覚だけはあるので、どうせ皆もそうだろうという前提でものを言う事が多く友人や同僚に対して不愉快な事を言ったような気がします。否定的な発言を繰り返し言ったり相手を貶めて自分を優位に立たせたいと行動したのではないでしょうか。それらは習慣化していたところもありますので無意識的につい言ってしまったりします。例えば、それは絶対無理だ、どうせ出来んって、やったち無駄、などですね。しかし、言ってしまった後にすごく後悔する自分もいました。間違ったことを言ってしまった、相手に悪く思われていないだろうか、もう話をする事もできないのじゃないだろうか。そんな不安もありました。そうなるとまた自己評価を下げ、無意識的に同じことを繰り返してしまいます。どんどん自信を失っていくパターンのひとつですね。言った事を謝る事もありましたけど、多くは不安が勝ってしまい、何も出来ずにいたと思います。

そんな日々を送っていくと他者からの指摘にも敏感になります。失敗なんかは必ずといっていいほど誰にもおこるものですが、それを受け止め学習し同じ失敗をしないように頑張る。それが当たり前だとおもいますが、私の場合はその過程で不安が大きくなりすぎてしまってまた挑戦しようという気持ちが小さく小さくなっていきました。自信を失い、結果的に職場にいけなくなります。そして、不登校の時と同じく一人の時間に入っていきます。完全に昼夜が逆転した生活になり、ご飯を買いに出かける時以外は外に出ずテレビゲームに没頭していいました。ゲームの良い点は刺激があり集中できるので、不安を感じるのを一時的にですが麻痺させてくれました。一人でゲームをしていて楽しかったと思える事はほぼ無かったのですがそうしないと不安に潰されてしまうのが分かっていたのでそうするしかなかったのです。こんな状態でしたが小学校からの友人とは連絡を取り一緒にゲームをして遊んでいました。もう二十歳を過ぎていましたが不登校当時とやっている事は変わっていませんでしたね。

この生活も長続きはしませんでした。当時はアパート暮らしだったのですが、貯金がなくなり出て行かなければならなくなったからです。その前に新しい就職口を探すことはできなくも無かったかもしれませんが、どうしても社会にでるのが恐ろしかったのです。私は家に帰る事にしました、両親に家で仕事をしたいと言って家業のユリ農家を手伝い始めたのです。この時の本心は社会に出て仕事をするという現実が恐ろしくて助けて欲しいというのが胸のうちだったと思います。両親にさえ胸のうちを出せない私が家で仕事をしていても結局の所、前の職場と同じように不安が溜まり続けていったのは間違いないと思います。そして溜まり続けていった不安はとうとう去年噴出すことになりました。きっかけは父親からの私に対する結婚へのプレッシャーが大きかったですね。こう言われたのを覚えています「人間として結婚をして子供を作るのは当たり前だ。そうしないのは異常だ」と。世間一般でもこう考える人は結構多いのではないでしょうか。ですが私はそう思うことができませんでした。それ以前の問題があるからです。寂しさから生まれた不安は人間不信、対人恐怖、社会不信などを僕の中に作り出しました。それらを飛び越して結婚する。そんな事がどうして出来るのか、今考えてもありえない話だと思います。しかし父の基準で言うと私は異常者ですね。

結局また、不安に押しつぶされそうになりました。苦しみの中にある状態で私はこう思いました、もし一年後に死ぬなら今どうすべきだろうか。私がここまで生きて来れたのは小学校での居場所を感じさせてくれた同級生がいたからではないだろうか。そんな彼らに迷惑をかけた事を謝った事があっただろうか、感謝を伝える言葉を言えた事があっただろうか。いや、残念ながらそれは無かった。ならば、せめてありがとうとごめんなさいを伝えておくべきではないだろうか。その行動をとるべきではないだろうか。私はこう考えました。もう学校にいけば皆に会えるわけではありません。だから私は同級生の家を一軒一軒まわり感謝の意味を込めてユリの花束をくばることにしました。私のクラスは1学年1クラスで18名しかいない小さな学校です。その内、連絡が取れる人は半分にも満たなかったのですが卒業アルバムから住所を探して配っていきました。卒業から18年間一度も会った事のない方も半分以上いたので内心は不安でいっぱいでした。突然、18年音沙汰が無かった人間が花束を持って現れる。それも不登校だった奴がです。そう考えるとただでさえ不安に押しつぶされそうな状態で更なる不安を生み出してしまい、途中で辞めようと何度も思いました。だから私は覚悟を決める必要があると感じました。生きて会いに行くのか、それとも死ぬまで会わないのか。そのどちらなのか決めようと考え、私は包丁を握りました。刃先を自分の腹ギリギリまで近づけ力を込めてとめます、そして可能な限りリアルに刃先が腹の中に入っていくのをイメージしました。本当に腹の中に硬く冷たい刃があるように感じましたね。その状態で自分に問います、どうするのかと。答えはでました。しんどい、しんどいけど行こうと思いました。高々、花束を配るだけでここまで自分を追い込まないと不安と戦えない自分を残念だとも思いますが、今はしかたがない、そんな人だからとも思います。

その後、幸いな事に皆全員と連絡がとれ、また皆で会おうという流れができました。そして18年ぶりに同窓会をやりましたね。当時の先生も呼びました。皆が私のおかげで再会できたと喜んでくれましたね。こんな馬鹿でも少しは役にたてたと感じています。

最後に、私という人間は本当に寂しい人だと思います。寂しくて寂しくて不安が広がり不信が作られ、恐れながら生きています。しかしながら、寂しさがなければ人に会おうとも思えません。寂しさは沢山の心の弱さを作りましたがそれを持って歩く原動力にもなりえます。寂しさとは求め続ける心でもあると思います。保育園でサンダルを拾おうと用水路に飛び込んだ当時の自分と今の自分にたいした変わりはありません。人の寂しさを感じた時にこそ私は社会に対して行動できる。今はそう考えています。

元当事者T.Sさんの講演記録から、ご本人の了解をとって掲載しました。

編集:やいろ鳥の会

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