KHJ高知県やいろ鳥の会

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私たちの声


『当事者家族の一考察---親が変われば子が変わるという事について』

オレンジ ボニート/2011年5月10日

 子どもがひきこもった頃、親の苦悩はいかばかりか、まさにパニックを起こしかけていた事を当事者家族の皆さんには容易にご理解頂けると思います。必死で情報を漁りアドバイスを求めましたが、解決に至る答えは見つかったでしょうか。将来を見通せない不安は親の更なる不安をかき立て、苛つき焦り子どもをなじり叱ったのではなかったでしょうか。子どものためと言いながら実のところは、親が不安から解き放されたかったのではなかったのか。思い返せば反省は山のようです。
 子どもがひきこもった当初、コミュニケーションが取りづらかった間に答えを求めて読み漁った本を積み上げたら楽に私の身長くらいにはなるかも知れません。そしてようやく私自身の中で、この問題はハウツーでは対処出来ないのではないかという思いが生まれてきたとき友人からのアドバイスが私を捉えました。「怒るななじるな、判ってやれ。」
 一番苦しんでいるのは子どもだし、決して怠惰で動かないのではなくてどうにも動けない状態にあるとは判っていたので、怒ったりなじったりはしなかったが果たしてどうすれば判ることができるのだろうか。友人は言った。「例え判らなくても、たとえ1%でもいいから判ろうと努力し続ける事」だと。
 私は、これはまるで禅問答だと思った。しかし、他に道は無いようにも思えた。どうすれば子どもの心が判るのだろうか。子どもに寄り添い全神経を集中して子どもからのシグナルを捉えようとしていた時、別の友人からのアドバイスにハッとした。「そんなに至近距離でにらみつけるようにされたら子どもさんは動くに動けないよ。」
 その通りだった。私は自分の勝手な思いだけで動いていた。子どもを判ってやると言う思いは子どもを早く治さねばならないという思いにいつの間にか取って代わっていたのだ。何という親の勝手さか。今にして気付いたのだが、子どもを怒りもなじりもしなかったから自分は良くできた親だと思っていたのだが、そんなことをしなくても子どもは痛いほど親の要求を判っていたのではないだろうか。ひきこもる子どもは感覚が鋭いし、ひきこもる事によって感覚が研ぎ澄まされるのかもしれない。子どもは親のエゴなど全てお見通しなのにジッと耐えていたのかもしれない。ごめんよ。
 何時だったか私はひきこもりの解決は本人が「育ち返しをすることだ。」と言った事があるのだが、先ずもって育ち返さねばならぬのは私自身ではないのかという事に気付いてしまった。傲慢だった。
 私の気付きと共に元気を取り戻しつつある子どもの将来はどうなるのか。以前は不安で一杯だったのに今は将来が楽しみだと感じている。育ち返しを経て自分の人生を納得し、最終的に就労しないとしてもそれは子どもの人生だ。受け入れたいと思うようになってきた。ひきこもっている期間も子どもにとっては子どもの人生だから、無駄だとは言えないのではないだろうか。そのような期間も含めて人生を肯定すればひきこもりだって肯定出来るように思う。
 家庭の中で親と子がいて、子どもが動けなくなりひきこもった時、親が変わらずに子どもにだけ変われ変われと言いつのっても動けないだろう。それで動けるならひきこもりにはならなかったのではないだろうか。子どもが動けないのなら先ず親が変わってみせたらどうだろうか。勇気を振り絞って不安と恐怖に打ち克ってみてはどうだろう。それが本当の意味で子どものためなのかもしれない。

『私のこと』

T.S.さん/2011年3月

略歴からお話しましょうか。生まれは農家です。三人兄弟の長男です。不登校の経験としては、小学校5年生を丸一年不登校をやってまして6年生から保健室登校を始めて少しずつ復帰していきました。中学高校といやいやながらも登校しなんとか卒業しました。その後、デザイン系の専門学校を卒業し、家具職人の見習いを4ヶ月ほどやりましたが続かず辞めました。そこから3ヶ月から4ヶ月ほどでしょうか、部屋にこもりきりになってましたね。その後現在の家業の農家の仕事をしています。というのが大体のあらましです。

不登校の時や引きこもった時の心境については、どんな子供時代であったかを話すほうが分かりやすいと思いますので、そこからお話します。

記憶の中にある最初の自分の記憶は、忙しい専業農家の両親がいつも家におらず寂しく泣いている事です。両親が家から仕事場のハウスへ行く時に足にしがみついて泣いていました。親が目の前からいなくなるという事が不安を呼びそれがまるで永遠のように感じられたからこその行動だったと思います。どうしても仕事だから行かなくてはいかないといくら諭されてもわからなかったと思います。自分が好きな物がいなくなる、なくなるというのはとても寂しいものですから。寂しさは私の中に様々な心の弱さを作っていったと思います。私が幼稚園に入ってもその不安は消えませんでした。当時、大好きなキャラクター物のサンダルがあり、お気に入りで毎日履いていました。ある日保育園に迎えに来た母と一緒に帰ろうとした時のことです。用水路に誤ってサンダルを片方落としてしまいました。サンダルは流れに乗ってどんどん流されていきます。私は一瞬でこう思いました、大好きな物が無くなる消える失う。そこからの私の行動は簡単でした、水路に泣きながら飛び込みサンダルを追いかけ持って這い上がりました。今もその用水路はあります、川幅が2,3メートルぐらいで、時期によっては水深が90センチくらいでしょうか。私が飛び込んだ時はそこまで深くはなかったかもしれませんが保育園児が飛び込むには少々勇気がいったと思います。落ち着けばまた同じものが手に入るとも思えるかもしれません、ですが、今から思うと寂しさを感じるのがそう考えるのより強かったのでしょうね。もしかすると、自分の好意の対象が消えるということは何かを好きになるという自分が消えてしまうのを恐れていたのかもしれません。この頃から小学校ぐらいは常に不安でオネショをよくしていましたね。強い不安は寝付きの悪さを引き起こして、家族はみんな寝静まっているのに私ひとり闇の中にいるという恐怖感から怖い夢をよく見ました。当然、睡眠時間は少なくなるので朝起きるのがしんどくてたまりません、しかし学校があるので親は「おきないかん」と怒ります。親としては当然の事だったと思いますが、十分な安心感が得られない状態で更に怒られてはたまりません。子供なりにストレスがたまっていったのではなかったかなと思います。

家には仏間がありまして、そこの仏壇にもらいもののお菓子をお供えしてから手を合わせて家族がいただくというルールがありました。仏間は薄暗く真っ黒い仏壇は気味が悪くて恐ろしかったなと憶えています。私が親に言われてお供え物のお菓子を取りに行った時の事です、怖がりながら手を合わせお菓子を取って部屋を出ようとして振り返ろうとした時、仏壇から大きな真っ赤な人の手が伸びてきました、私の胴体をつかめるくらい大きなものです。あわてて走って部屋から逃げ出しました。親に言っても信じてもらえませでしたね、ただ笑われたと記憶しています。当然ですね、幻覚ですから。怖い幻覚は他にも何回か見ました。幻聴もありましたね、夜、寝付けずにいる時に延々と階段を上がってくる誰かの足音が聞こえたりしていました。子供だから想像上の物が見えたり聞こえたりするのは当然なのでしょうか?それとも不安心理から来るストレスがそうさせたのか。それはわかりません。不安をまぎらわす為によく弟をいじめてました。誰かより上になれば自分の弱さを見なくてすみますし弱い相手を見る事で優越感を得られます。自分にはそういうところがあったと思います。

そして不登校です。もしかすると何かしらのきっかけがあったのかもしれません。例えば強く先生に怒られたとか、もしくは同級生に嫌な思いをさせられたとか、でも原因は私自信の強い不安感だと思います。もし先生や同級生が原因であれば学校に復帰はできなかったでしょうし、18年後に彼らにもう一度会おうとも思わなかったでしょう。

不登校の時に最初のほうは一人で家にいる事が多かったように思います。学校にいかず何をするでもなく束縛感を感じない時間は逆に安心できる時でもあったと思います。朝起きて家族みんなが外にでた後、廊下に出て窓から少しずつ日が差し込んでくるのを肌で感じながら外を眺めていました。学校や家族といる時間と比べると時間がすごくゆっくりでしたね。もしかすると心の充電期間だったのかもしれませんね。しばらくすると一人でいるのにもいたたまれなくなってきます。不安感が少しマシになると次は寂しさが出てくるようになりました。そうすると信じたい人間と一緒にいたくなってくるのです。それは両親であり、友人でありました。当時はクラスにもう一人不登校の子がいました。彼とは一緒に散々ゲームをして遊びましたね。いつも私が電話をして遊ぼうと声をかけ家に行ったり、来てもらったりしてゲームをやってた記憶があります。とても楽しかったですねえ。遊べない時は両親を追いかけてビニールハウスに行ってました。もうしばらくすると親は私を教育委員会へ連れて行くようになりました、そこでは現在の不登校の対応をするような場所であったと思います。私はそこで卓球やオセロをして遊んだり、お話を聞かせてもらったり、後は箱庭の砂場のテストを受けたりしていました。母はその時に不登校の子の対応を教えてもらっていたと聞いています。その対応の一つに毎日私の足裏をマッサージするというのがあり、毎晩揉んでくれていましたね。私は嬉しくもありましたが、同時に寂しくもありました。それは残念ながらしかたなく揉んでいるのがわかってしまったからなんですが、暗い表情で私の足をマッサージする姿は苦しさを感じさせるものでした。何度か揉まなくてもいいと断るほどでしたので。子供にとってスキンシップは大切なコミュニケーションの一つだとは思いますが気持ちを乗せそれを伝える想いがなければそれはお互いが苦しいものなのかもしれませんね。

6年生になってすこしずつ学校へ復帰していくようになりました。周りの同級生は大分ためらったと思います。急に1年くらいこなかったのに登校し始めた、なんなんだろうかと。それについては先生方がだいぶ気を使ってくれたと思います。おかげで復帰を果たし通学していけるようになりました。この事は私の人生において強烈な意味を持ちます。

私は家庭の中に自分の居場所というものを感じる事や作る事ができませんでした。安心して家にいるということができなかったのです。それは幼い頃から寂しさに飲まれ続けたおかげで心が弱り、何かを信じる力が弱くなってしまったからです。不信感は特に人間に対して出てきます。目の前の人間は自分にとって安全なのかどうか、どうすればこの人は自分にとって安全な存在になるだろうか、しかしそもそも人を疑っている自分は信じれるのだろうか、何が自分なのだろうか。人間不信は自分を疑う所まで来ると全てに対する自信を失っていきます。誰かと話す自分、誰かと遊ぶ自分、学校へいく自分、ご飯を食べる自分、体を動かす自分、考える自分。私は当時の私が自信を失った自分を不登校という形で表現し、自分の持つ弱さをさらけ出したのだと感じています。そして復帰し同級生に受け入れてくれた事実というのは本当は弱い自分がその中に居場所を感じ始めた瞬間だったと思います。私は始めての社会、家庭で弱さを見せ続けてきましたが受け入れられたと思える時はありませんでした。しかし、小学校では居場所を感じる事ができ初めていたんだと思います。

だから小学校を卒業して中学校に入学しても必ず、小学校の同級生の何人かとは繋がりを持ち続けていました。彼らの存在は私の自信にほぼ直結するくらい大きな存在なのです。中学も高校もですが、そこに小学校ほどの居場所を感じられるものはありませんでした、今現在でもそう思っています。彼らの存在が無ければまた不登校になっていたのではないかと思っています。

専門学校時代や就職中でも自信ない自己評価の低い自分は常におりました。自分は低レベルであるという自覚だけはあるので、どうせ皆もそうだろうという前提でものを言う事が多く友人や同僚に対して不愉快な事を言ったような気がします。否定的な発言を繰り返し言ったり相手を貶めて自分を優位に立たせたいと行動したのではないでしょうか。それらは習慣化していたところもありますので無意識的につい言ってしまったりします。例えば、それは絶対無理だ、どうせ出来んって、やったち無駄、などですね。しかし、言ってしまった後にすごく後悔する自分もいました。間違ったことを言ってしまった、相手に悪く思われていないだろうか、もう話をする事もできないのじゃないだろうか。そんな不安もありました。そうなるとまた自己評価を下げ、無意識的に同じことを繰り返してしまいます。どんどん自信を失っていくパターンのひとつですね。言った事を謝る事もありましたけど、多くは不安が勝ってしまい、何も出来ずにいたと思います。

そんな日々を送っていくと他者からの指摘にも敏感になります。失敗なんかは必ずといっていいほど誰にもおこるものですが、それを受け止め学習し同じ失敗をしないように頑張る。それが当たり前だとおもいますが、私の場合はその過程で不安が大きくなりすぎてしまってまた挑戦しようという気持ちが小さく小さくなっていきました。自信を失い、結果的に職場にいけなくなります。そして、不登校の時と同じく一人の時間に入っていきます。完全に昼夜が逆転した生活になり、ご飯を買いに出かける時以外は外に出ずテレビゲームに没頭していいました。ゲームの良い点は刺激があり集中できるので、不安を感じるのを一時的にですが麻痺させてくれました。一人でゲームをしていて楽しかったと思える事はほぼ無かったのですがそうしないと不安に潰されてしまうのが分かっていたのでそうするしかなかったのです。こんな状態でしたが小学校からの友人とは連絡を取り一緒にゲームをして遊んでいました。もう二十歳を過ぎていましたが不登校当時とやっている事は変わっていませんでしたね。

この生活も長続きはしませんでした。当時はアパート暮らしだったのですが、貯金がなくなり出て行かなければならなくなったからです。その前に新しい就職口を探すことはできなくも無かったかもしれませんが、どうしても社会にでるのが恐ろしかったのです。私は家に帰る事にしました、両親に家で仕事をしたいと言って家業のユリ農家を手伝い始めたのです。この時の本心は社会に出て仕事をするという現実が恐ろしくて助けて欲しいというのが胸のうちだったと思います。両親にさえ胸のうちを出せない私が家で仕事をしていても結局の所、前の職場と同じように不安が溜まり続けていったのは間違いないと思います。そして溜まり続けていった不安はとうとう去年噴出すことになりました。きっかけは父親からの私に対する結婚へのプレッシャーが大きかったですね。こう言われたのを覚えています「人間として結婚をして子供を作るのは当たり前だ。そうしないのは異常だ」と。世間一般でもこう考える人は結構多いのではないでしょうか。ですが私はそう思うことができませんでした。それ以前の問題があるからです。寂しさから生まれた不安は人間不信、対人恐怖、社会不信などを僕の中に作り出しました。それらを飛び越して結婚する。そんな事がどうして出来るのか、今考えてもありえない話だと思います。しかし父の基準で言うと私は異常者ですね。

結局また、不安に押しつぶされそうになりました。苦しみの中にある状態で私はこう思いました、もし一年後に死ぬなら今どうすべきだろうか。私がここまで生きて来れたのは小学校での居場所を感じさせてくれた同級生がいたからではないだろうか。そんな彼らに迷惑をかけた事を謝った事があっただろうか、感謝を伝える言葉を言えた事があっただろうか。いや、残念ながらそれは無かった。ならば、せめてありがとうとごめんなさいを伝えておくべきではないだろうか。その行動をとるべきではないだろうか。私はこう考えました。もう学校にいけば皆に会えるわけではありません。だから私は同級生の家を一軒一軒まわり感謝の意味を込めてユリの花束をくばることにしました。私のクラスは1学年1クラスで18名しかいない小さな学校です。その内、連絡が取れる人は半分にも満たなかったのですが卒業アルバムから住所を探して配っていきました。卒業から18年間一度も会った事のない方も半分以上いたので内心は不安でいっぱいでした。突然、18年音沙汰が無かった人間が花束を持って現れる。それも不登校だった奴がです。そう考えるとただでさえ不安に押しつぶされそうな状態で更なる不安を生み出してしまい、途中で辞めようと何度も思いました。だから私は覚悟を決める必要があると感じました。生きて会いに行くのか、それとも死ぬまで会わないのか。そのどちらなのか決めようと考え、私は包丁を握りました。刃先を自分の腹ギリギリまで近づけ力を込めてとめます、そして可能な限りリアルに刃先が腹の中に入っていくのをイメージしました。本当に腹の中に硬く冷たい刃があるように感じましたね。その状態で自分に問います、どうするのかと。答えはでました。しんどい、しんどいけど行こうと思いました。高々、花束を配るだけでここまで自分を追い込まないと不安と戦えない自分を残念だとも思いますが、今はしかたがない、そんな人だからとも思います。

その後、幸いな事に皆全員と連絡がとれ、また皆で会おうという流れができました。そして18年ぶりに同窓会をやりましたね。当時の先生も呼びました。皆が私のおかげで再会できたと喜んでくれましたね。こんな馬鹿でも少しは役にたてたと感じています。

最後に、私という人間は本当に寂しい人だと思います。寂しくて寂しくて不安が広がり不信が作られ、恐れながら生きています。しかしながら、寂しさがなければ人に会おうとも思えません。寂しさは沢山の心の弱さを作りましたがそれを持って歩く原動力にもなりえます。寂しさとは求め続ける心でもあると思います。保育園でサンダルを拾おうと用水路に飛び込んだ当時の自分と今の自分にたいした変わりはありません。人の寂しさを感じた時にこそ私は社会に対して行動できる。今はそう考えています。

元当事者T.Sさんの講演記録から、ご本人の了解をとって掲載しました。

編集:やいろ鳥の会

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