KHJ高知県やいろ鳥の会

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私たちの声


~ひきこもり整体師のひとりごと~

令和4年1月第3回

明けましておめでとう。でしょうか?

いつもお世話になっております。楠永です。

会った人から「読んだよー」とか言われると本当に励みになります。整体を受けてみたいとのお申し出も恐悦の至極でございます。

やれることはあまりに少なく、やりたいことはあまりに多い。

ですが今年も、今年を生きていきます。

人は教えると弱くなる

先日あるメディアで「人は教えると弱くなる」という文言を拝見した「なるほど」と思い、内省に入っていった。

先の発言者は光岡英稔さんというおかた。

僕がなんとなくこの説を推したくなるのは多分僕が学校というシステムに馴染めなくて困ったから、というのは大きな理由だと思う。誰でもあなたの選択は正しかったーとか言ってもらいたいはずだ。それがたかが昨日の晩御飯の献立だったとしても(その献立は間違ったチョイスだね。なんて言われたらみなさん腹が立つでしょ?僕だけかも知れませんが)

そんな僕の正当化バイアスは今回見なかった事にして、またこの説に一分の理があると仮定して、今回のお話を組み立てていきますね。(つまり全編僕の妄言て訳です)

なぜ人は教えると弱くなるんだろう?

(重ねてここからは僕の主観による経験則とそれに基づく推測のお話です。悪しからずご了承ください)昔よく聞いたのは人から教わるばかりの人は自分の頭で考えるのが苦手になるとかいう理屈だけど、なんとなく言いたい事は理解できる、マニュアルばかり考えているとマニュアル外のイレギュラーが発生した時に対応が利かないみたいな事が言いたいんだと思う、でもだからといって東大なんかに行く人たち(貧困な比喩表現で申し訳ない)がみんなそういうタイプかなあ?と言うとあながちそうとは言い切れない気がする。また「融通が利かなくなる」でも「自分の頭で考えかくなる」とも違う「弱くなる」としているのが考えどころだとも思う。なので次に思い至ったのは下記のようなもの。

教えるというシステムの問題

実は冒頭の「人は教えると弱くなる」という文言と僕の中で最初に結び付いたのは五味太郎さんの著書の中の言葉。「学校というシステムがそもそもイジメ」みたいな表現だったと記憶しているけど、これを自分なりに箇条書きまとめると、

①「教える」と「教わる」というトップダウン方式の構造

②教わる側は一律に理解をしていかなくてはならない(早すぎる理解も遅すぎる理解も問題になる)

その2つの要素の表すところを五味太郎さんは迷える子羊を導く聖職者といったような表現をしていた。つまり上に立つ人の下に居る人々への哀れみがシステムの前提に据えられている以上、イジメといった問題から逃れる事が出来ない。そんなシステムのように見え、さらに恐ろしい言葉を使うとすれば(現場にいて働く人がそう思っているということではないが)、「おお知恵というものを知らない者達のなんと哀れな事か」という呪いのようなものがこのシステムに潜んでいるかもしれない。そこで思い出したのが次の論文。

哀れみの効用

一度冒頭に返り最初に上げた光岡氏は同じ頃にハワイ原住民、ハワイアンの著しい人口減少なども言及していた。ということで少しググってみると、ハワイ語復活の経緯をまとめた論文みたいなものを見つけた。軽い気持ちで印刷するとA4用紙50枚以上のデカイ豆腐みたいなのが出てきてちょっぴりびっくりしました。(全部読めていませんが)

この資料の冒頭でハワイ語話者の減少の様々な原因の1つにネイティブハワイアンの人口減少を上げていてそれには渡来人の伝染病の持ち込み等の幾つかの説が上がっていたが、なにより目を引いたのは「カメハメハ大王の死去と共に訪れたそれまでのルールが崩れた事によるハワイアン達の心理的衰弱」を原因とするものだった

“来航者の持ち込む文明の利器や諸制度に圧倒され貨幣経済制度の中で翻弄された人々が、民族としての誇りを喪失していったことは想像に難くない。”~原文より引用~

この時のハワイアンの方達の気持ちを推し量ることは出来ませんが、なんとも言えない気持ちになります。もし、この事が人口減少の一翼を担っているとしたら、僕たちが口減らしをするのに刃物も火器も毒も要らない、ただ他人に自分達の優れた所を見せびらかし、「おおなんて未熟な」と心の中で哀れみながら自分達の優れた所を教えていけば良いのかも知れない。こんなことを自分はしていないか?と問われると僕はハッキリ「してない」という自信はありません。

この後この論文は言語の復活に尽力する人々の運動とその成果を書き記していましたが、「言語の復活」に関してもそれは生半可ではなく、もしかしたら真の復活というものは望めないのではないかな?と思うところがありますが、またの機会に。

閑話休題

辛気臭い話になってしまったのでここで一休み。僕は学校という「構造」にはいろいろと疑問を持っているが、「学校そのもの」を否定したい気持ちはあんまり無い。学校に行って楽しんでいた友達もたくさん知っていますし(ここまで言って何をと思われるでしょうが)。

以前高校卒業後フラフラしている時に先生達の飲み会に参加させていただいた。そんな時にまだこれほど明確に言語化されていなかっただろう学校という「システム」への違和感を現場の先生の1人に投げ掛けてみた(もちろんちゃんと受け止めた上で答えてくれそうな「話せるオッサン」に)。返答はこんな感じだった、

「おまんのぃゆーことはよーわかる。たしかに一人一人に合うた学びは大事ゃ、けどそれをやろうとしたら収拾がつかんなる。(生徒も含めた)わしらは今さら烏合の衆にゃもどれんろ?」。

という現場で愛情いっぱいにやっているその先生の話を聞いて、僕は「まぁーたしかにー」に続く言葉がなかった。それほどにこの先生の言う事には説得力があった。

両論知って僕が今思うこと

まあこんな事に思いを巡らせても、『教える』は変わんないし、僕とか個人が自由になることなんかは無いのですが僕はいつもこんな事を胸に秘めつつ仕事しているのわけです。

多分未だにいろいろ納得いっていないのでしょう。あの時の教室の空気も、先んじていろいろと教えてくれる母親にも、そんな事から今回の「人は教育すると弱くなる」というテーマに触れてみたくなったのかもしれません。僕は昔から「こうした方が良いよー」、「こうしたら上手くいくよー」、「これ美味しいよー」という善意の言葉を上手く受け取る事が出来ずにいた、一言で言うなれば「ネタバレやんけ、俺の失敗の機会を奪うな、何が美味いかは俺が決める」というひねくれた思いが頭をもたげさせた。そう思えばそもそも教育の裏返しは失敗の機会の剥奪なのかも知れない、もちろんそういう言葉をかけてくれた人たちは皆善意からそうしてくれたのだと今は思う。そう思うがそんな幼少期の自分の「機会の剥奪やないか?」という問いに僕は上手く答える事が未だにできないし、また自分の子供にや友人たちにそういう剥奪行為をしていないか?と問われるとこれまた「してない」と答えられない。

それでも生きていく、生きている

こんな事を思ったあと何を得て、何を思い生きていくかというと、「ああ、これはアカンな」と思い「次はちゃんとやります」くらいしかないのです。何も変わらないのです。が、そもそも上手く生きる事をコンセプトや目標に生きていない訳で。

自己紹介:楠永洋介

小学校3~4年を不登校、次いで中学校1年2学期~2年生を不登校、義務教育期間中は正味5年程しか登校していません。定時制高校を卒業後、進学、卒業を拒否して祖父の遺したお金でネットスクールや、ワークショップ、FXなどを経験してお金を溶かしました。なんやかんやあって結婚後、2人の子供を授かる。現在、農業、整体業、塾講師等で生計を立てる。

御礼

ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。冒頭にも書きましたが、読んでいただいた方の言葉にいつも励まされます。いつにも増してややこしいテーマを書いてしまい、3ページにも及んだ割には取り留めがなく、オチもない投稿でしたが、お付き合い頂いた方にはお礼申し上げます。来月はもう少し軽くてサクッとしたものを…とは考えていますが分かりませんね。

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